先ほどまでは何で戦争が起きるのかというパズルを形式化してみました。そこでは基本的には戦争のコスト、戦争には多大なるコストがかかるという議論の中から、そこから何でそもそも戦争なんかをしてしまうのかというパズルです。
基本的にはいかなる国際紛争にも平和的な解決策がありうるとにもかかわらず事後的に非常にコストのかかるような政策としての戦争、武力交渉を行うということは基本的には非常にパズルであるとありえない話です。
問題は、なぜ、どのようにしてありえた平和を勝ち取ることに失敗したのかってことを考えるのが戦争の原因を考えることになるわけです。
そうするとまずパズルです。
パズルでは基本的にはありえた平和解を獲得できなかったことは政治の失敗であるということを考えるわけなんです。つまり原則的に常に存在する平和解決の実現を阻害する様々なメカニズムがありうる。だからこそ失敗したのかもしれないという発想です。
であるならば、ここでは政治の失敗として我々は戦争というものを考えていると、であるならばその失敗の原因となったメカニズムとして、何がありうるのかということで昨今の国際政治の理論においては大きく3つに分けてのアプローチがあります。
これはどれが正しいというわけではなくて、どれも、どのような現象においてもありうるということなんです。今回はそのひとつ目、不確実性について見ていきましょう。
平和解決達成のための条件なんですけれども平和解決の原則的存在というのはそれが常に達成可能であることを意味しているわけではない。平和解決が可能であるということと平和解決が原則的に存在しているということは別問題である。そうすると国際紛争において第1国であるS1 あるいはS2またはその双方の政府が平和解決が存在しているということをまず理解していることがそもそも平和解決達成のためには必要なことなんです。
さらにですね先ほどのバーゲニングのモデルでみるともう一度図はだしますけれどもその戦争コストあるいはその戦争の機会利得です。それがどこに位置するのかということで、その平和解決のその集合の大きさが変わったり位置が変わったりするってことも少し見てきました。
そうすると平和解決の解決策が存在するということを理解するということはどういうことであるのかというと、バーゲニング・モデルに基づいて言えば平和解決が可能な大きさと範囲というのが戦争利得に規定されてくるわけですからその戦争利得を理解するということが原則的に存在している平和解を勝ちとっていくうえでのひとつの必要条件になってくるわけなんです。
それはどういうことかということも少し展開して考えてみます。
戦争利得では基本的にpとc、c1 c2というのがあるというお話を先ほどしました。で、pていうのが単純に言えば戦争に勝つ確率です。それの一つの解釈としては実際には最後の戦う戦争というのは歴史的には少ないので停戦合意があるわけです。そこで履行される政治解決ということを表すpとしても考えることができる。
つまり戦争の結果決定される新しい領土配分であるんだけれども様々な要因によって定義されてくると、具体的に、何をもってpが規定されてくるのかてことを考えると、よく言われていることは、相対的な国力、特に軍事力です。s1とs2にとっての相対的な軍事力の違い、それから双方の軍備状況、さらにその双方にとっての兵力の運用能力、あるいは軍事技術もそうです。また、それぞれの軍隊、日本であれば自衛隊がどのように訓練されているのか戦闘能力によっても決定されてくると同時にpだけを知っただけでは平和解決の大きさは分かりません。
基本的にpていうのは、その平和解決のロケーション位置をだいたい探る手立てになるわけです。今度は平和解決の大きさ、幅なんですけどそれは、cの大きさ、戦争コストの大きさによって規定されてくるということも先ほど、確認いたしました。。それを直接的には戦争コストって考えるわけなんだけども、それは実際には政策決定者の立場において考えれば政策コストというのは戦争コスト、つまり国民国家、我々国家、つまり国民ですね、戦争という経験をさせる。そのような政治行為を行うというだけの覚悟があるのか。
自衛隊の皆さん、あるいは軍隊の皆さんに戦場に行って頂くという覚悟、それをお願いできるのか、という覚悟、また、我々の市民生活もストップするでしょう。色々な意味でそれをお願いする覚悟があるのか、それは自国だけではなく他国に対してもそうなんです。そのような覚悟があるのか、ていう意味でのcです、で、そのような覚悟っていうのは何によって影響されるのかって考えてみればそれはやっぱり、それぞれの政体におけるイデオロギーっていうものがまずあるでしょう。それから、国内世論の状況もあるでしょう。その世論というものを、どのように政策に反映させていくのかというそのその道筋である、決定する政治体制というのが重要でしょう。
さらにの係争事案、対立している、さきほどでは領土っていましたけれども我々にとって国民にとってあるいは政府にとってもそうでしょうけれどもその重要性は何か、そのさまざまなファクターの相対的に決まってくることです。
問題は、本来ならばこういう、cとかpについて正確な値を知らないことには正確な平和解決の大きさあるいは位置を理解することができない。
残念ながら、しかしここで上げた全てのことをほぼすることは政治体制くらいです。これは観察できない、なかなかできないことです。我々自身、自分のことを考えてみてどのような覚悟を持ってあの武力行使にのぞむかって、個々人の問題として考えたときにそれは正しい値として理解できるでしょうか、難しいです。
さらに他国の軍事能力、軍事力、戦闘能力、あるいは兵力の運用です。それは作戦、あるいは指揮系統の問題も入ってくるんですけども、それは軍事機密なんです。これは非常に観察できないものである。これ政治的な問題もそうです。特定秘密保護法というものがあります。基本的なこういう情報を相手国に漏らさないということが主眼になっているわけです。
であるならば戦争解決に必要な情報のパラメーターなんですけれども、こういうものは全部、ゲーム理論の言葉を使えば私的情報なんです。自分は知っているかもしれないんだけれども相手は知らないという意味での私的情報、プライベートインフォメーションなんです。であるならば国際紛争という場は、実はゲーム論でいうところの不完備情報のゲームなわけなんです。
※不完備情報ゲーム(ふかんびじょうほう-)とは、ゲームのルールあるいはプレイするのに必要な情報がプレイヤー間で共有されていないゲームをいう。
じゃあ、この状況がどのような問題を引き起こすのかっていうのを、ちょっと見てみましょう。まずこの前提として、この戦略的環境があるものとしましょう先ほどと基本的なセットアップは同じでして、s1とs2がいて0と1の間で何かしらの係争物があると、領土でもいいです。現行の国境線というのが、qとしてあるとしましょう。そうするとそれぞれのパラメータ、戦争のコストとかとかあるいは、戦争に勝つ確率もそうなんですけど、パラメーターがこのように置かれていると想定しましょう。
そうすると、ここでは第1国、s1が戦争で得られる利得というのは、p-c1で与えられます。ここに先ほどの平和解決可能な範囲をのせてみるとのってた先と方向が同じ環境になってくるわけです。
p-c1とp+c2の間で双方にとっての交渉妥結可能な範囲が重なりますから、そこが平和解決可能な範囲であるはずである。問題はこれをどのように知ることができるか、っていうことなんです。考えてみるともし、s1が第1国で、s2の戦争利得p+c2を過小評価してしまった場合、考えてみましょう。本来ならば、p+c2なんだけれども過小評価することで、ここで、p'ですね、p'+c2という風に勘違いした過小評価しと考えてみると、s1は発想、s2にとってはですねs1をどういう風に考えるかというと、相手国つまりs2はp+。。。p'+c2、この青の部分まで譲歩してくれるだろう。それが妥結可能な範囲であろうと誤認してしまう可能性があるわけです。であるならばその第1国、s1は過小評価している側なんですけど間違えて平和を勝ち取りたいと思っていたとしても、ここの青の部分、赤から飛び出した青の部分でここで交渉を進めようとするかもしれない。そうするとこの、x'ですねこの値はどうなってくるかっていうと、これ、第2国の側にしてみれば実はこれに妥結する、外交から得られる利得というのは実は戦争した時の利得、つまり、1とp+c2よりも、小さくなってしまうということがいえるんですよね。
じゃあ、ここからひょっとして第2国は、s1がs2の戦争利得を誤認したが為にs2は戦争を開始してしまう動機をもってしまうかもしれないわけです。また同時に今度はp+c2 第1国が相手国、c2の戦争利得を過小評価ではなくて今度、過大評価したとしましょう。で、どうなるかっていうと今度はこの過大評価をしたうえでの妥結可能範囲というのは実際よりも狭くなっているであろう。勘違いするわけですよね、s1は。となると、このx'はこの青のx'に交渉を進めるかもしれない。当然それっていうのは、もしx'が出てくれば、s2にとってはある意味では、めっけものなんです。そうすればそれに妥結してくると。そうすると、しかしそれは事後的にどうなるかっていうと、おそらく、s1国にとってのs1の交渉担当者は外交の失敗、国益を損ねた外交の失敗だと事後的に歴史的に非難されるでしょう。
じゃあ、ここから何が出てくるのか。このような、まず相手の戦争利得がわからない、つまり、p+c2がわからないとこのような、不合理なあるいは、都合の悪い結果が出てくるかもしれない。そうするとこれっていうのは結局は1つには、あの2つのせめぎ合うインセンティブが出てきてしまい、ジレンマが起こりうるということなんです。つまり、どういうことかというと、もし、s1が相手国の戦争利得s2の戦争利得、p+c2を過小評価していたならば、それって戦争の危険性を生みますよね、という帰結です。
一方でもしそれを相手の戦争利得を過大評価しているのであれば、それは不必要な領土割譲に繋がってしまい国益を損失してしまうというジレンマに直面するかもしれないんですね。
この状況というのは実は、投資をするときに株式などを投資します。売買することでそれと同じジレンマなんです。つまりどういうことかっていうと国際紛争において起きる交渉では、それぞれに戦争の危機を高めるような交渉をすすめるインセンティブ、それから国益を最大化するつまり国益の損失を失くすようなオファーをだしていく交渉を進めるインセンティブが出てくるとです。一方でもし戦争の危険性を最小化したいのであれば、それは国益の損失に繋がるかもしれない、あるいは国益の最大化を求めるような外交交渉をもしするのであればそれは戦争の危険性を高めるかもしれない。それっていうのはリスク、つまり利益を求めて国益を求めてリスクを高めてしまうていうことがありえるわけです。
これは、我々の用語ではリスク リターン トレードオフ といいます。つまりギャンブルもそうなんですけど高い賭け率なんだけど、リスクの高い、です。しかしもし、それが当たったら大きなリターンがのぞめるという状況もありますし、リスクが怖くて小さな掛け金しか儲けないとリターンは少ないとそうするとそこで見えてくるのがリスクとリターンのトレードオフです。
同じ状況は国際紛争の平和的妥結にのぞむ交渉官達も必ず直面する問題であるということがいえるわけです。それをじゃあ、先ほどのバーゲニング・モデルにのっけるとどういうことになるかというとs1が相手国の交渉の相手国の戦争利得が分からないというと結局この赤で示した平和解決可能範囲の位置や大きさがわからないことになりますから暗闇の中でオファーを出していくしかない。
外交要求、あるいは外交的な譲歩です。出していくしかないんです。そのなかで、一方では国益を最大化しようとインセンティブが働くんだけれどもそれは戦争の危険性を高めるかもしれない。一方で戦争の危険性を最小化しようとするのであれば国益をどんどん損失を出す危険性が高まるということです。
じゃあ、ここで何が行われているかというと結局は国益を最大化しようというそういう、制約のもとで戦争の危険性が最小化しているという一種の最適化問題が行われているという風に考えるわけなんで。ここで明らかになってくるのは何かというと不確実性の払拭が、平和解決達成の必要条件になるわけなんです。そうするとそれを翻っていえば、なにかというと不確実性が残っている限りにおいて戦争のリスクは常に存在しうるということを示していいると。不確実性がどこから出てきているのかというと相手が武力行使に対するどのような政治覚悟をもっているのかあるいはどのような軍事能力を持っているのかそのようなパラメーターでした。
残念ながら、そのような情報というのは非常に不確実でしかわれわれは理解することができないという状況があるとこれがひとつの戦争原因の根本的な原因になりうるというふうに我々は考えているわけです。
国際安全保障論 1-4.戦争の原因・戦争のパズル
戦争の定義、それから戦争にかかるコストっていうの定式化して、そこからどのような条件で平和解決が達成可能なのかという議論をしてきました。
この平和条件の解決を考えていくと実は、戦争がなぜ起こるのかというその根本的なパズルを考えていく上で非常に重要な示唆をえられるということが見えてくるんです。まずはここまでの確認です。
国際紛争において戦争を回避するためにに得ることができる平和解決の存在というのは、どういう条件で決まってくるのかというとそれは外交による妥結が外交を通しての妥結が双方にとって、つまりS1とS2の双方にとって戦争よりも合理的な場合であると言うことなんです。
ただここで、一点注釈なんですけど、ここで合理的っていうのは正しいって意味でもなく、望ましいって意味でも基本的にないんです。ただ単にそれぞれの国家S1とS2にとって彼らのインセンティブや選好に合致しているという程度の意味でしかないです。言ってみれば、例えば100円と10円という選択があったときに100円を選択しようと、それを持って合理的とここでは言ってるわけですよね。
このような単純な論理だけでいえてくるのが戦争を回避するための国際紛争の平和的な解決のための範囲は何かということが、ここで定式化されました。じゃあ問題は戦争解決のための戦争を回避するための平和解が存在する条件は何かということなんです。
実は答えは非常に簡単でして、これっていうのは戦争の定義、つまり戦争っていうのは他の手段をもってしての政治過程の、通常の政治過程の延長であると、さらに戦争というのは通常の政治過程と比較して非常にコストのかかることであるとそれを考えるのであればその定義に従えば平和の解はいかなる国際紛争においても常に原則的には存在するということなんですね。
これ非常に重要な結果でして、なんでかっていうと考えてみればやっぱり戦争を他の政治行為と峻別する特徴づける事柄は何かというと非常にコストが高いことなんです。それというのは少し専門的な経済学でも使われる専門的の言葉を使うとそれは事後的にパレート非最適であると、つまり後から考えてみればなんでこんなことをしてしまったのかという意味で誰にとっても損つまりほかにもっと良く状況を改善する望ましい手段があったのにという後悔するって意味での事後的にパレート非最適な状況っていうのがやっぱり戦争なんですよ。
で、それっていうのが戦争コストでいうとS1とC2を足し合わせたものつまり双方にとっての損害です。それがゼロには絶対にならないと言うことなんです。つまり少なくともC1あるいはC2のいずれか少なくともゼロ以上である。つまり戦争のコストが少なくともかかりうる限りにおいてはいかなる国際紛争にも原則的には常に平和解っていうのが存在するということをここで示しているわけなんです。
これを考えるときに何が重要なのかということを考えてみるわけなんです。けれどもこの戦争を回避するための平和解決のための必要条件として戦争コストを考えるのであれば考えてみると、もし仮に戦争コストがつまりS1とS2にとっての戦争コスト、C1、C2です、重ね合わせたものがゼロに近づいてしまうと平和解決はあり得ない、存在し得ないってことが言えるわけです。さっきの議論の裏返しなんですけれども、であるなら、もし仮にS1にとっての戦争コストC1あるいはS2にとっての戦争コストC2がゼロに近づけば近づくほど平和解決が不可能に。これがゼロに極限に近づいてしまえば平和解決は不可能になるってことなんで。
つまりどういうことかっていうと、この図を見てもらうと、もし外交によって最終的な戦争の結果ってものを履行できていれば、Pでしたよね実は戦争コストっていうのはこのPとP-C1、この距離が実は第一国のS1にとっての戦争コストなんです。同様にPとP+C2の間ですよね、この差っていうのはC2ですよね。これはC2第二国S2にとっての戦争コストなんです。
その意味で戦争コストが双方にある限りにおいてはこの赤の部分はなくならないということなんです。
つまり専門的に言えば空集合にはならないということなんです。これがもしゼロ戦争コストが双方とも小さくなっていくとどうなるかっていうと、こういう風にどんどん狭まっていく訳ですよね。C1、C2がどんどん小さくなっていくと最終的には平和解決の可能性というのは、ほんの小さな条件でしか起こりえないということになるわけなんです。
これはどういうことかってことですよね。考えてみれば戦争コストっていうのは先ほども話した通り非常に悲惨な結果をまねくとわけです。我々がここで捉える戦争コストっていうのはこういうことなんですよね、つまり考えてC1が、あるいはC2がゼロ以上であるということはどういうことかというとそれは我々政治家もふくめて政策決定者も含まれて平和の尊さ、戦争の悲惨さを我々が理解している限り社会として我々がそれを理解してる限りにおいて、その社会が関わりうる国際紛争においてはつねに平和解決は存在するということを示しているわけです。
我々がここで歴史教育なども重要であり平和教育も重要であるというのは実はこの戦争コストというものを我々が理解していくということに他ならないわけです。ポイントは、これを我々が社会として理解する戦争コストは悲惨なものであると平和は尊いものであるということを理解する限りにおいて平和解決が可能であるということはですねどういうことかというと、これはよく政治家あるいは歴史家もそうなんですけれどもは過去の実際に戦争を起こした人たちがこれは必要な戦争であったっていうことを常々言うわけなんです。
しかし本当に必要な戦争というのはあるんですかという根本の問題です。先ほどの朝鮮戦争の地図も見ました。あれをなんで多大なる人的な被害損害をくわえてまであれを履行する必要があったのかということを事後的にやっぱり分かるわけです。であるならば正しい戦争というのは原理的にはありえないはずなんです。
われわれが平和の尊さ、戦争の悲惨さという意味での戦争のコストを理解する限りにおいては必ず国際紛争における武力衝突は回避できるはずなんです。
ここで、しかしながらやっぱり必要な戦争であった正しい戦争というのは考えてみればそれは政治的な言い訳、政治的なレトリックなんです。ここで我々がなんでこういうことを学問するのかという一つの我々の責務としては彼らのその政治レトリックとしての正戦論、正しい戦争、必要だった戦争というものをそのまま後追いすることではないんです。
そこから一歩ひいて原則的にはこのような解決策ほかの解決策は絶対ありえたということをまずは理解するそしてその理解した上でじゃあなんで実際には現実の政治家たちは戦闘を開始したのか、そしてこのような人々はなぜ苦しむ結果になったのかということを我々が理解するということは後世に生きる我々としての責務であり国際政治学を学ぶ我々国際安全保障論を議論する我々にとっての責任なんです。
これを理解することによって同じような誤ちを繰り返さないということを我々は学問として知識として社会に共有していくとそれが一つの大きな目的であるわけなんです。それを考えるときに重要なのは何かというと戦争のパズルなんです。
戦争は事後的にコストがかかることであるならば双方ともに合意可能な平和解は必ず存在すると言うことです。つまり戦争コストが戦争は事後的に非効率的なものにたらしめ、だからこそ平和の解決は常に可能であるとであるならば効率的な平和解決ではなく非効率な戦争をわざわざ選択した理由は何かということを問うことが戦争の原因のパズルであるんです。
繰り返すとこれは戦争の平和解というのは平和的解決が原則的には可能であるにもかかわらずなぜそれを勝ち取る事に我々は政治として失敗したのかそれを問うことが彼ら苦しんだ人々に対して真実を解き明かすという意味でも重要なことなんです。またそのような間違いをどこかでしているのであればそれを特定することで戦争が何で起きたのかということを理解することにつながりますし、今後の社会の知識として我々はどのように対処していけばいいのかということが理解できるはずである。そのようなパズルっていうのはここから導き出されるこのバーゲニングモデルっていうのは非常にシンプルなものであるとシンプルなんだけれどもこれは非常に論理的に出てくる結果なんです。
シンプルであるってことはどういうことかっていうと様々に実際の事象は異なるかもしれないんだけれども、このような状況というのはどの事象にも当てはまることであるわけですよね。その意味で一般化可能なんです。
そういう意味でわれわれはこのバーゲニングモデルというのが非常に有効であると最後に一点、時間が足りないかもしれないんですけれども指摘しておきたいのが正戦論という話を先ほどしました。
正戦論というのは基本的に正しい戦争、正しくない戦争というものを分けるという特に17世紀から興隆してきた発想なんです。ただこれが第一次世界大戦が始まるまでにおいては、そもそも正しい戦争正しくない戦争というのは区別できないという発想から戦争無差別論になるんです。言い換えればどんな戦争も国家主権の発動であれば正しいのであるという前提なんです。
しかしながら第一次世界大戦第二次世界大戦を乗り越えて我々は第二次世界大戦後における国際法の規範としてどういう進展を見たかというとこれは戦争の間には正しい戦争正しくない戦争というのはないとしかしながらここで、すべての戦争を正しいというわけではなくすべての戦争は正しくない正当ではないというのが基本的な法規であるわけです。それか国連憲章では戦争というものをより飛び越えて武力行使なんです。
武力行使に正当性はないと原則的にまた、それだけではなくて武力をもってする威嚇です。それも正当性は基本的にはないというのが国連憲章で明文化されているんです。そのように考えれば正しい戦争っていうものはありえない正しい武力行使というものはありえないという法規範というのは実はここにある。
バーゲニングモデル、ゲーム論から出てきた論理的な帰結と非常に面白いと整合性があるという点を指摘しておきます。
この平和条件の解決を考えていくと実は、戦争がなぜ起こるのかというその根本的なパズルを考えていく上で非常に重要な示唆をえられるということが見えてくるんです。まずはここまでの確認です。
国際紛争において戦争を回避するためにに得ることができる平和解決の存在というのは、どういう条件で決まってくるのかというとそれは外交による妥結が外交を通しての妥結が双方にとって、つまりS1とS2の双方にとって戦争よりも合理的な場合であると言うことなんです。
ただここで、一点注釈なんですけど、ここで合理的っていうのは正しいって意味でもなく、望ましいって意味でも基本的にないんです。ただ単にそれぞれの国家S1とS2にとって彼らのインセンティブや選好に合致しているという程度の意味でしかないです。言ってみれば、例えば100円と10円という選択があったときに100円を選択しようと、それを持って合理的とここでは言ってるわけですよね。
このような単純な論理だけでいえてくるのが戦争を回避するための国際紛争の平和的な解決のための範囲は何かということが、ここで定式化されました。じゃあ問題は戦争解決のための戦争を回避するための平和解が存在する条件は何かということなんです。
実は答えは非常に簡単でして、これっていうのは戦争の定義、つまり戦争っていうのは他の手段をもってしての政治過程の、通常の政治過程の延長であると、さらに戦争というのは通常の政治過程と比較して非常にコストのかかることであるとそれを考えるのであればその定義に従えば平和の解はいかなる国際紛争においても常に原則的には存在するということなんですね。
これ非常に重要な結果でして、なんでかっていうと考えてみればやっぱり戦争を他の政治行為と峻別する特徴づける事柄は何かというと非常にコストが高いことなんです。それというのは少し専門的な経済学でも使われる専門的の言葉を使うとそれは事後的にパレート非最適であると、つまり後から考えてみればなんでこんなことをしてしまったのかという意味で誰にとっても損つまりほかにもっと良く状況を改善する望ましい手段があったのにという後悔するって意味での事後的にパレート非最適な状況っていうのがやっぱり戦争なんですよ。
で、それっていうのが戦争コストでいうとS1とC2を足し合わせたものつまり双方にとっての損害です。それがゼロには絶対にならないと言うことなんです。つまり少なくともC1あるいはC2のいずれか少なくともゼロ以上である。つまり戦争のコストが少なくともかかりうる限りにおいてはいかなる国際紛争にも原則的には常に平和解っていうのが存在するということをここで示しているわけなんです。
これを考えるときに何が重要なのかということを考えてみるわけなんです。けれどもこの戦争を回避するための平和解決のための必要条件として戦争コストを考えるのであれば考えてみると、もし仮に戦争コストがつまりS1とS2にとっての戦争コスト、C1、C2です、重ね合わせたものがゼロに近づいてしまうと平和解決はあり得ない、存在し得ないってことが言えるわけです。さっきの議論の裏返しなんですけれども、であるなら、もし仮にS1にとっての戦争コストC1あるいはS2にとっての戦争コストC2がゼロに近づけば近づくほど平和解決が不可能に。これがゼロに極限に近づいてしまえば平和解決は不可能になるってことなんで。
つまりどういうことかっていうと、この図を見てもらうと、もし外交によって最終的な戦争の結果ってものを履行できていれば、Pでしたよね実は戦争コストっていうのはこのPとP-C1、この距離が実は第一国のS1にとっての戦争コストなんです。同様にPとP+C2の間ですよね、この差っていうのはC2ですよね。これはC2第二国S2にとっての戦争コストなんです。
その意味で戦争コストが双方にある限りにおいてはこの赤の部分はなくならないということなんです。
つまり専門的に言えば空集合にはならないということなんです。これがもしゼロ戦争コストが双方とも小さくなっていくとどうなるかっていうと、こういう風にどんどん狭まっていく訳ですよね。C1、C2がどんどん小さくなっていくと最終的には平和解決の可能性というのは、ほんの小さな条件でしか起こりえないということになるわけなんです。
これはどういうことかってことですよね。考えてみれば戦争コストっていうのは先ほども話した通り非常に悲惨な結果をまねくとわけです。我々がここで捉える戦争コストっていうのはこういうことなんですよね、つまり考えてC1が、あるいはC2がゼロ以上であるということはどういうことかというとそれは我々政治家もふくめて政策決定者も含まれて平和の尊さ、戦争の悲惨さを我々が理解している限り社会として我々がそれを理解してる限りにおいて、その社会が関わりうる国際紛争においてはつねに平和解決は存在するということを示しているわけです。
我々がここで歴史教育なども重要であり平和教育も重要であるというのは実はこの戦争コストというものを我々が理解していくということに他ならないわけです。ポイントは、これを我々が社会として理解する戦争コストは悲惨なものであると平和は尊いものであるということを理解する限りにおいて平和解決が可能であるということはですねどういうことかというと、これはよく政治家あるいは歴史家もそうなんですけれどもは過去の実際に戦争を起こした人たちがこれは必要な戦争であったっていうことを常々言うわけなんです。
しかし本当に必要な戦争というのはあるんですかという根本の問題です。先ほどの朝鮮戦争の地図も見ました。あれをなんで多大なる人的な被害損害をくわえてまであれを履行する必要があったのかということを事後的にやっぱり分かるわけです。であるならば正しい戦争というのは原理的にはありえないはずなんです。
われわれが平和の尊さ、戦争の悲惨さという意味での戦争のコストを理解する限りにおいては必ず国際紛争における武力衝突は回避できるはずなんです。
ここで、しかしながらやっぱり必要な戦争であった正しい戦争というのは考えてみればそれは政治的な言い訳、政治的なレトリックなんです。ここで我々がなんでこういうことを学問するのかという一つの我々の責務としては彼らのその政治レトリックとしての正戦論、正しい戦争、必要だった戦争というものをそのまま後追いすることではないんです。
そこから一歩ひいて原則的にはこのような解決策ほかの解決策は絶対ありえたということをまずは理解するそしてその理解した上でじゃあなんで実際には現実の政治家たちは戦闘を開始したのか、そしてこのような人々はなぜ苦しむ結果になったのかということを我々が理解するということは後世に生きる我々としての責務であり国際政治学を学ぶ我々国際安全保障論を議論する我々にとっての責任なんです。
これを理解することによって同じような誤ちを繰り返さないということを我々は学問として知識として社会に共有していくとそれが一つの大きな目的であるわけなんです。それを考えるときに重要なのは何かというと戦争のパズルなんです。
戦争は事後的にコストがかかることであるならば双方ともに合意可能な平和解は必ず存在すると言うことです。つまり戦争コストが戦争は事後的に非効率的なものにたらしめ、だからこそ平和の解決は常に可能であるとであるならば効率的な平和解決ではなく非効率な戦争をわざわざ選択した理由は何かということを問うことが戦争の原因のパズルであるんです。
繰り返すとこれは戦争の平和解というのは平和的解決が原則的には可能であるにもかかわらずなぜそれを勝ち取る事に我々は政治として失敗したのかそれを問うことが彼ら苦しんだ人々に対して真実を解き明かすという意味でも重要なことなんです。またそのような間違いをどこかでしているのであればそれを特定することで戦争が何で起きたのかということを理解することにつながりますし、今後の社会の知識として我々はどのように対処していけばいいのかということが理解できるはずである。そのようなパズルっていうのはここから導き出されるこのバーゲニングモデルっていうのは非常にシンプルなものであるとシンプルなんだけれどもこれは非常に論理的に出てくる結果なんです。
シンプルであるってことはどういうことかっていうと様々に実際の事象は異なるかもしれないんだけれども、このような状況というのはどの事象にも当てはまることであるわけですよね。その意味で一般化可能なんです。
そういう意味でわれわれはこのバーゲニングモデルというのが非常に有効であると最後に一点、時間が足りないかもしれないんですけれども指摘しておきたいのが正戦論という話を先ほどしました。
正戦論というのは基本的に正しい戦争、正しくない戦争というものを分けるという特に17世紀から興隆してきた発想なんです。ただこれが第一次世界大戦が始まるまでにおいては、そもそも正しい戦争正しくない戦争というのは区別できないという発想から戦争無差別論になるんです。言い換えればどんな戦争も国家主権の発動であれば正しいのであるという前提なんです。
しかしながら第一次世界大戦第二次世界大戦を乗り越えて我々は第二次世界大戦後における国際法の規範としてどういう進展を見たかというとこれは戦争の間には正しい戦争正しくない戦争というのはないとしかしながらここで、すべての戦争を正しいというわけではなくすべての戦争は正しくない正当ではないというのが基本的な法規であるわけです。それか国連憲章では戦争というものをより飛び越えて武力行使なんです。
武力行使に正当性はないと原則的にまた、それだけではなくて武力をもってする威嚇です。それも正当性は基本的にはないというのが国連憲章で明文化されているんです。そのように考えれば正しい戦争っていうものはありえない正しい武力行使というものはありえないという法規範というのは実はここにある。
バーゲニングモデル、ゲーム論から出てきた論理的な帰結と非常に面白いと整合性があるという点を指摘しておきます。
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